上記写真は「NATIONAAL MUSEUM VAN WERELDCULTUREN」から引用
今回は寓話ではなく、みなさんの卒業生で、かつ公務員の方のブログからの引用です。
私達が「判断基準」と呼び、求められるものの多くは、「判断するためのもの」ではなく、「判断しなくてよいことにするためのもの」です。
その意味では「エビデンス」も「判断材料」もまた「判断しなくてもよいことにするため」のベース資料です。
さらにアリバイを共有するための「会議」なるものも同様の機能を果たします。「会議に諮る」という「判断ルール」ということにした行為により、「正式に判断した(判断された)」ことにする、という呪術的または「傘連判状(からかされんぱんじょう)」的な儀礼として、その「機能」を果たします。
https://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/syou_shyakai/h15/ikki/content/08.html
こうしたことを逆にいえば、何かを「判断基準」ということにすれば、誰も判断の責任をとらずに「判断したこと」にすることができます。
この「判断しないで結論を出す」という「判断レス」のために、20世紀型の日本社会・組織では、コストと労力が惜しみなく優先して費やされます。
そしてそれらが「高度な(上流の)」仕事と自認されがちです。
私達はそれと引き換えに大きな踏絵を踏まされていることを忘れてはならないと感じています。
(後略・一部加筆修正あり)
一級建築士制度に読み替える
私達が「一級建築士試験」と呼び、受験しているものは、「建築設計の判断基準とするためのもの」ではなく、「建築設計の判断をしなくてよいための基準をマスターするためのもの」です。
その意味では「コマ」も「階振分け」もまた「建築設計として判断しなくてもよいことにするため」の考え方です。
さらにアリバイを共有するための「標準解答例」なるものも同様の機能を果たします。
試験作成サイドが示す「標準解答」という「判断ルール」を理解することで「正式に判断した(判断された)」ことを理解させる。このような呪術的または「傘連判状(からかされんぱんじょう)」的な儀礼のように、標準解答例はその「機能」を果たします。
こうしたことを逆にいえば、「標準解答例」を「判断基準」ということにすれば、資格学校は合否に対する判断の責任をとらずに「判断されたこと」にすることができます。
このように一級建築士試験は、「資格学校や試験作成サイドが作っているであろう枠組みを守れば、建築設計についての判断をしなくても合格可能」=「判断レス合格」という仕組み化が進んでいます。
そして、このような20世紀型の一級建築士試験制度での不毛な合格のために、受験生は多大なコストと不毛な労力が惜しみなく優先して費やさざるを得ない状況に追い込まれています。
そしてこの制度で合格した一級建築士は「高度な(上流の)」資格保持者であると自認されがちです。
しかし私達は資格取得と引き換えに大きな代償を支払っていることを忘れてはならないと日々感じています。
制度疲労を起こしている一級建築士
卒業生の方のブログは、身につまされる思いで読みました。制度のために制度に縛られている公務員の方が、その制度を守ることでのみ、その中で承認されているという狭い空間。その狭い空間の中で、同意を求められ、意にそぐわなくても、会議では多数決で是とし、その決議のために、エビデンスと称する書類を揃えることに膨大な時間と労力を割いている状態。
製図試験も同様です。合格するために普段していない手描き図面を何十枚も描き、設計したくもない課題と称するプランを考え、どんなに良いプランを計画しても、防火設備ひとつで不合格にさせられてしまう。
「国民の生命と財産を守る」使命感に燃えた一級建築士を世に送り出すことをもう全く見失ったこの建築士制度は完全に制度疲労を起こしています。
踏絵を踏み潰して合格しよう
製図試験comがあなたに提供できることは、製図試験制度を理解し、踏絵の踏み方を、魂の売り方を教授するとともに、その先に行くために、踏絵をどう踏み潰して合格するのか、という一点のみです。
合格することは必須ですが、それは単なる国土交通省の踏絵に過ぎない。私達がめざす地平はずっとその先です。
そのために製図試験をケースワークとして、建築するとはどういうことか、細分化してい考える意味を常に問うています。
それが製図試験comと他の資格学校との決定的に異なる存在意義です。