とある国では、建築基準法を超える判断が必要となる建築物について、その安全性について大臣認定をとれば超法規的な運用ができることになっています。そこでの協議をしていたときのお話。
審議員「この設計は確かに安全性についてのシミュレーションは完璧ですが、ここまで建築基準法を逸脱するのはいかがなものか」
設計者「いや建築基準法はあくまで普通の建物のための最低限の法律ですよね、ここまで安全性が確認されているのですから、もう大臣認定してください」
審議員「うーん、ここまで逸脱するとねぇ」
設計者「ではお尋ねします。あなたは何一つない草原のような地域で、自動車が全く通ってないと確認できる横断歩道で、信号が赤信号は渡らないというのですか」
審議員「もちろん、渡りません。信号は赤なのだから。」
信号はなんのためにあるのか
両方に理屈があります。
・そもそも信号は安全のためにあるのだから、安全が確認できたら渡る
・安全であっても赤信号というルールなので渡らず待つ
どちらも正しいですよね。
では「渡ったら合格できる」としてもあなたは待ちますか? 強い目的意識があると別のモチベーションが作動しますよね。そして、そもそも信号はなんのためにあるのか、ということです。
なんのためのルールなのか、ということです。
この話は、交通違反を推進している話ではなく、製図試験を考えるうえでの寓話として捉えてください。
ルールをつくる人がルールを破る
よく講習会やオンラインで話すことなのですが「ルールをつくる人がルールを破る」んです。
なぜか。
ルールをつくる人は、なぜそのルールを作ったのかという理由がわかっているからです。それ以上の事象が起こっている場合は、そのルールに縛られる必然性自体がなくなってしまい、簡単にそのルールを破ります。
一方、ルールを与えられた人は、ルールがスタートラインなのでルールを破ることはできないわけです。
ルールがなぜあるのかではなく、そのルールを守ることが第一義となっているからです。
モノをつくるという十字架
建築を使う人とつくる人。建築という人間が構想した架空のモノにカタチを与えるという神の所業の一角を担うのが建築士であり、建築という仕事です。
その神の所業を担う私たちには、「モノをつくる」という十字架を背負っています。
具体的には、ルールがあったとしてもその意味を理解し、場合によってはそのルールすらを凌駕する必要に迫られる現場を抱えるということです。
モノをつくるということはそういう所業だと位置づけ、製図試験に臨んでいただきたい。