ヒヅメさんと対談用に作った自己紹介
漫画家で一級建築士のヒヅメさんの出版記念パーティに参加したときの対談で自己紹介をしなければならなくなり、これを機会に少しまとめてみました。
小学校6年生(12歳-1974年)
卒業文集に、「一級建築士になる!」と意味もわからず書いていた。
ロックバンドでコンテストで負けまくる高校2年生
音楽で身を立てたく、ロックバンドやったりしてましたが、全くコンテストに負けまくる日々。そこで高校の担任に相談したところ、オーディオとか好きなら電子学科に行けばどうかなと、音楽ではない進路が決まる。ところがその年末、志望していたデンオンが一時休業。音響業界に暗雲。そうしたら担任が「建築音響なんかどうだろう?」と勧められ、建築学科に進むことに決意。
大阪工業大学で音響工学に挫折
大阪工業大学に進み、1年から音響工学の研究室に出入りするも、日々材料実験の日々。こんなん違う!と、大学の進路相談に行く。担当教授から、勉強したいのなら、①図書館の建築の本を全て読め、②大学院への進学を勧められ、4年間で大学の建築の本の全読破と、大学院進学の勉強を始める。
建築系学生連絡会議の事務局長
磯崎新や黒川紀章が参加した国際建築系学生連絡会議のための組織「全国建築系学生連絡会議」に参加。この時に、全国の建築系の諸先輩や後輩ができる。関西建築系学生連絡会議の事務局長を務める。この時に、西山卯三、吉阪隆正を師と仰ぐことになる。
神戸大学大学院環境計画学専攻で早川和男先生に師事
西山先生の本流である早川和男先生の下で修士を専攻する。同大学には吉阪先生のやはり本流である重村力先生がおられ、大きく影響を受ける。
デザインではなくコンサルを目指しており、早川先生重村先生の下での学びの影響は大きいと思われる。知のサーキットトレーニングである「何になるんだ」「それがどういう意味があるんだ」という恐怖のゼミや、「それはお前の意見なのか」「一次情報にむかえ!」は今でも大きな示唆を受けており、実は製図試験comの重要な指針となっている。
コンサルタントでアルバイトをしているうちに、作り手ではまちづくりはできず、発注側にいかなければならないと感じ、阪神電鉄に就職する。
阪神電鉄時代(24歳~27歳)
不動産事業部に行きたいと考えていたが、ジョブローションで人事課の下、様々な関連事業のオリエンテーションを受ける。鉄道事業部では駅員から運転手まで、甲子園球場の売り子等行った後、なぜか情報システム部でシステムオペレーター、プログラマーとなる。これまでゴリゴリの建築学生だったので、9時-6時の生活を満喫する。
I.L.D.立ち上げ(26歳)
お金をもらうと副業になるので、無償で行う建築アートボランティア自営業「I.L.D.」を阪神電鉄時代に立ち上げる。照明器具の制作やアートの個展等にI.L.D.として出品する。
2つの出来事から阪神電鉄の退社を決意
ひとつは、映画バックトゥザフューチャーを観た時、そしてかつてバイトしていた設計事務所に行った時に、阪神電鉄を辞める決意をする。
映画バックトゥザフューチャーを見終わった後、その後のエンドロールに私の名前がない(当たり前だが)。私はいつのまに、作る側から観る側に変わったのだろう。と。やっぱり作る側に行きたいと感じた。
そしてかつてバイトしていた設計事務所に行った時に、これまで鬼のようだった所長がやけに優しい。帰り道、同所の先輩から「お前ももう社会人扱いでお客さん扱いに変わったよな~」と。
「え?」「そら阪神電鉄の若手なんやから、将来はクライアントになるかもわからんやろー」
そ、それであんなに優しかったんか・・・。
あー、これはあかん、これではあかん・・・。と思ったわけです。
親の条件はひとつ。阪神電鉄よりも給与が多いこと
大手設計事務所で愕然とする
レンゾピアノが関空のウィナーになり大阪事務所を開設
ぱしりでいいので入所を希望、が叶う(28歳~30歳)
サイン、バゲージハンドリング、音響、メンテナンス機器を担当
ピアノ事務所縮小で次の事務所を探す
ガソリンスタンド専門事務所に勤務(30歳~32歳)
I.L.D.として独立直後に阪神大震災(32歳)
マーケティング会社で働く日々
専門学校、日建学院で非常勤講師
コーポラティブハウス事業に参画、かつ失敗する
製図試験comの前身「学科製図.com」を立ち上げる(2000年-38歳)
学芸出版社から「エスキースアプローチ」刊行(40歳)
日経BP社とコラボレーション企画
学芸出版社から「わかるエスキース」刊行
カフェ・バーのオーナーから商店街会長・NPO理事長へ
製図試験comに組織改編
学芸出版社から「ステップで攻略するエスキース」刊行
まちづくりセンター事業でまた失敗するw
ヒヅメさんと知り合う